「ホワイトハンドコーラスNIPPON」は、障害(※)の有無や経済状況にかかわらず、すべての子供たちが参加できる合唱団。声で歌う「声隊」と、手話や顔の表情で音楽を表現する「サイン隊」によって生み出される音楽はとても豊かで、観る人の心を揺さぶります。
今回は、ホワイトハンドコーラスNIPPONの芸術監督であり、ソプラノ歌手としても活動するコロンえりかさんにお話を伺いました。
※音声読み上げソフトを使用した際に正しく読めるよう、この記事では「障害」の表記を採用しています。
――コロンえりかさんはベルギー人の作曲家のお父様、日本人のソプラノ歌手お母様をご両親にもち、子どもの頃に日本に帰国したとのことですが、改めてご経歴から教えてください。
はい。ベネズエラで産まれ、10歳までは幸せな子ども時代を過ごしていたのですが、国の情勢が不安定になり、10代は祖父がいる関西で過ごしました。
日本ではなかなか居場所を見つけることができず、友達もできなくて……本当に孤独でした。
そんな時、偶然出会った神父様に小林聖心女学院を紹介していただきました。キリスト教的な価値観に基づいた“魂を育てる”という教育方針に触れ、初めて学校見学で訪れた日に「この学校に行きたい!」と思いました。
洗礼は10歳で受けたのですが、その頃は何かを探し求めていたというよりも、ごく自然な流れで受けたという感覚でした。
――別のインタビューでは、日本で編入した小学校で壮絶ないじめを経験したとあり、胸が詰まりました。
でも、きっとみんな、大人になるまでに多かれ少なかれ辛い経験をしていますよね。
こんなエピソードがあります。
洗礼を受けてから少し後に、祖父が癌で余命数ヶ月と診断されました。
当時は本人に告知をすることはほとんどなく、家族は「春になったらお花見に行こうね」など希望を持たせるようなことを言っていたのですが、ある日、病室で祖父と2人で過ごしていた時に、祖父が死んだ後の世界について語り始めたんです。
当時の私は洗礼を受けたばかりだったこともあって、「人は死んでも、天国でまた会えるんだよ。神様の元に戻るだけだから怖くないよ」と必死で伝えたんですね。そうしたら、毎朝欠かさずお経を唱えるような、本当に信心深い仏教徒だった祖父が「僕は洗礼を受けたい」と言ったんです。
それで神父様に連絡をしたのですが、距離的にすぐに行くことはできない、と。でも、祖父の病状を考えたら一刻も早く洗礼を受けるべきだろうと、「あなたにその権限を授けます」と言われました。私が神父様に教えられた通りに洗礼を授けた後、祖父の意識はなくなり、そのまま静かに息を引き取りました。
この経験を通して、生きること、死ぬことの意味を知ったというか……本当に死と隣り合わせの生活を送っていた子ども時代に、生きる力を与えられたように思いました。
――日本では小中高生の自殺率の高さが問題になっています。
いじめだけが理由ではないと思いますが、えりかさんにとって子ども時代、何が支えになっていたのでしょうか。
とにかく、1日、1日を生きるのに精一杯という感じでしたが……でも、そうですね。
いじめの構造って、いじめに関わっている全員がいじめられている子を憎んでいるわけではないんですね。いわゆる“多数派”として、積極的にいじめている子どもたち以外は、ほとんどが“傍観者”なんです。傍観者の子たちの中には、無関心な人もいれば、心を痛めながら見ている人もいるし、本当は止めたいけれどできなくて、悩んでいる人もいる。
でも、いじめられている当人にとっては、多数派も傍観者もみんな同じで、一人一人の葛藤にまで気づくことはできません。ただ、誰も見ていないところで、学校の帰りに「さようなら」って声をかけてくれるクラスメイトがいたり、近所のおばさんが「おはよう」って挨拶をしてくれたりすることがあって。
ほんのひと言ですが、もう無理だと思っていたときに、その小さなひと言で「私という存在を認識してくれている人がいる」と、自殺を踏みとどまった瞬間が何度もありました。
生かされたのでしょうね。
――いじめを止めると今度は自分が標的になる……と何もできずにいる人も多いと思います。
ちょっとした“声かけ”って大事ですね。
そうですね。みんなの前で声をかけるのは難しいかもしれないけれど、だれも見ていないタイミングで挨拶をする、たった1人でもそれができたら、すごく違うと思います。
時代も違いますし、関西と関東とでは文化的な違いもあると思うのですが、街ですれ違った人と挨拶したりとか、知らない人と言葉を交わす機会が増えてもいいんじゃないかなと思います。
――辛い経験を経て、日本を嫌いには、なりませんでしたか?
正直なところ、ガッカリしましたし、日本が抱えている課題を目の当たりにしたようにも感じました。
でも私自身、日本国籍がある日本国民であり、初めから「外国にやってきた」というよりも、「自分の国に帰ってきた」という感覚だったんです。
だから、外から見て日本の社会のここが悪いという視点ではなく、自分が生きている社会やコミュニティの課題として考えてきました。
――中学校から小林聖心女学院に進学されました。その後の生活は変わりましたか?
もう、劇的に変わりました!
生活環境の変化としては、それまでは外見を動機にいじめられていたのが、「ハーフなんだね」と受け入れてもらえるようになったり、友達もできて。私自身も日本名に変え、自分は日本で生きていくんだという気持ちでした。
小林聖心女学院は、フランス人の修道女であった聖マグダレナ・ソフィア・バラが創立した学校です。
そんな背景もあってか、常に学校には日本社会とは違う「窓」があり、その窓から世界や、自分以外の誰かに想いを馳せることができるように、先生方が示してくださっていたように思います。
学校ではよく、「Think Globally、Act Locally」、いつも世界に目を向けつつ、目の前や身近な場所で行動を起こしなさい、と教えられていました。
――その後のえりかさんの活動にもつながりますね。洗礼を受けたことや、ミッションスクールで学んだ経験は、その後の人生にも影響を及ぼしましたか?
そうですね。
生きていく上でとっても大切な、“根”ができました。
後編に続く
【profile】
コロンえりか/ベネズエラ生まれ。聖心女子大学、大学院で教育学を学んだ後、英国王立音楽院声楽科修士課程を優秀賞で卒業。イタリア、フランス、イギリスでの音楽祭出演、国内外で演奏活動を続けながら、ホワイトハンドコーラスNIPPONの芸術監督として、視覚・聴覚など障害のある子どもたちに音楽を教えている。駐日ベネズエラ大使夫人、4児の母として、忙しい日々を送る。