辛かったことを「なかったこと」にしなくていい。そのためにラップがある。/ラッパー、詩人・FUNIさん(後編)

川崎を拠点に、ラッパー、詩人として活動するFUNI(フニ)さんのインタビュー後編。クリスチャンとしての生き方や、心の中にある様々な想いを「なかったことにしない」ために行っている、ラップワークショップについて伺います。

――教会でラップを披露されていた学生時代、すでに“信仰心”は持たれていたんでしょうか?

むしろなくて。それどころかひどいもんでしたよ(苦笑)。教会を作った第1世代が「ハナニン(韓国語で『神様』)」って祈る姿を見ながら、「俺たちは祈ることもないし、神に頼ることもない。逆になんでおまえらはそんなに弱いの」と思っていて。
牧師のパートナーから「礼拝に出なさい」と言われても、「俺たちは礼拝には出ない。なぜなら、弱くないし、祈る理由もないからだ」と反発して。ここでいちばん力を持っている牧師に直接言わないところがダサいですよね(苦笑)
で、「自分たちの好きなようにしなさい」と言われたんですが、勝ち誇ったような気持ちにもなれなくて。次の週から少しずつ礼拝に参加するようになりました。
それでもまだ反発していて――。

本当に信仰心が芽生えたのは、27歳で本当に自分じゃどうにもならないことを体験したときに「祈る」ことができたからじゃないかな、と思います。
すごく辛かったり、大切な人を傷つけてしまったりといった経験を経て、“祈り”は本当にどうしようもなくなったときに、唯一与えてくださるオプションだと思っているんです。「宝くじを当ててください」みたいな、自分の欲のための祈りじゃなくてね。
そのときの自分では何もできない、どうしたらいいかわからない中で、待たなきゃいけなくて。この「待つ」時間がいちばん厳しくて、祈ることができたからこそ、耐えられたんだと思います。

――「祈り」の力を体験された。

もう一つ、思い出したエピソードがあります。
僕が18、19歳の頃にイラク戦争があり、ドキュメンタリーで戦争の映像を見て、精神的に食らってしまったことがありました。すぐに牧師に泣きながら電話をかけて「なぜ戦争はなくならないのか?」と問いかけたんです。そうしたら、返ってきた言葉が「funi、戦争がなくなることはない。でも、戦争をなくすための戦いも、決してなくなることはないんだよ」と。今思い返すと、神様に向かって祈ったわけではなかったけれど、祈るような気持ちだった。戦争という自分ではどうにもできないことに対する答えを探して、牧師に電話をかけたわけです。この時の対話は、後にラップになり、教会でもパフォーマンスしました。
でも、27歳の時は、ラップにすることすらできなかった。だから、自分の中で「ラップをする」ということは、祈りの1個手前というか――。もしかしたら、ラップができる身体が奪われた時に初めて「祈り」に変わるのかもしれません。

――様々な経験がラップに生かされているんですね。

聖書に書かれている「ことばが受肉する」ことを言語化して伝えるのはすごく難しいんですが、ただ「平和」だとか「幸せ」といった言葉を散りばめるよりも、もっとリアルに、誰かを傷つけてしまったときのような、罪を犯した感覚、手触りや、「自分はめちゃくちゃ痛かったし、辛かった」と表現することで、むしろその裏側にある平和が実感として伝わるんじゃないかなと感じています。
そもそも聖書のことばって、そのままだと子どもにはわからないですよね。頭にも身体にも入ってこない。ある程度の年齢になり、心の底から辛い、キツイ、痛いといった経験を経て、ようやく聖書に書かれている内容がとてもリアルに、ポエティックに心に響く仕掛けになっているんです。自分の体を使って言葉にする表現方法は、すでに聖書先輩がやってくれているので(笑)、それを踏まえた上で「ある人の場合」として表現することがラッパーとしての自分の役割だと思っています。

――ダビデが旧約聖書の中で、自分のまっすぐな気持ちを吐露していますが、お話を聞きながらもしかしたらあれはラップだったのかもしれないなと思いました。

そうですね。ラップには2つの段階があって、第1段階が「怒り」です。例えば「なんで日本で産んだんだよ」とか「なんでキリスト教の家庭に生まれたんだ」とか、疑問や怒りをエネルギーに、ストレートに表現する。
ある程度の年齢になればそういった疑問もなくなり、社会に順応してきます。そうすると第2段階として、本当に痛んで言葉にすることさえできない人の代わりに発信する。実際は代弁なんて不可能なんです。それをわきまえた上で、それでも誰かが言わないといけない、その部分を担いたいなと。
そんな思いから、ラップワークショップをはじめました。

――ワークショップではどんなことをするんでしょうか。

日々感じていること、言いたいけれど言えずにいることを、リズムに乗せてラップする。自分の想いを素直に言葉にする雰囲気を作ることが最大の目的です。
僕自身、子どもの頃は「自分の気持ちは言ってはいけない」と思い込んでいたけれど、教会でパフォーマンスしたときには祝福され、それによって「言ってもよかったんだ!」と思えました。自分が何者かわからず、自己肯定感が低かった背景には、構造的な差別、社会の問題があったはずなのに、自分の問題だと決めつけていた。こうした心の中にあるものを言葉にすることによって、そして、その想いに寄り添ってくれる人たちがいることによって、自分たちがいるコミュニティが、さらに世界が変わっていくかもしれない。自分で世界を変えるのは難しいから、そのきっかけになればいいなという思いもありますね。

年齢や性別を問わず色々なバックグラウンドを持つ方が参加していますが、大前提として、ラップワークショップで聞いた話は持ち出さない、ネタにしない、心の中だけで大切にする。解散したら、その場で終わりです。

――面白いですね。

自分の中で、「気持ちが持ち上がる」ようなことがあればそれはもうラップだと思っていて。言葉よりも”生き方”ですね。
参加者はみんな「自分の話なんか聞きたいんですか?」とか「今まで誰にも言えなかったんだけど……」と言います。「むしろそれを聞きたいんですよ」「言ってもいいんですよ」という雰囲気を、みんなで編んでいくんです。その人と人とのつながりの中に僕は神の国の存在を感じるというか――。初めは誰もが「自分にはラップなんてできない」と思っているのに意外とできてしまうんですよね。その時のみんなの思いは、「いったいどうやったんだろう」という感覚、イエス・キリストが魚2匹とパン5個で5000人を満たしたときの、大衆の気持ちに近いんじゃないかなと思います。

――子どもにも、大人にも「心にあることを言ってもいい」場所があることはとても大切に感じます。

自分にパートナーができるまでは、自分の家族や身近なコミュニティが最高だと思って生きてきたんですね。実家を出て、パートナーと一緒になり、子どもができてという過程を歩む中で、もしかしたら自分の親は今でいう“毒親”だったのかもしれない、と思うようになりました。
単純に親を赦すことができればもちろん素晴らしいけれど、何があったのかを聞く。心にあるものを打ち明け、受け止める。そうしたことにラップが使えるんじゃないかと思っています。

自分が教会育ちだからだということもあるのですが、若い人たちにとって教会が、家や学校以外にも、恐れることなく自分の気持ちを表現できる場所になれるんじゃないかと思うんです。

――お話は尽きないのですが、これからやってみたいことはありますか?

2024年の「いのフェス」では教会に対する愛憎(Love and Hate)というか、教会で感じていた辛さを交えてラップでパフォーマンスしました。音楽に宗教を持ち込むなと暗黙のルールがあるのかもしれませんが、今後はこうしたことにもチャレンジしていきたいな、と。
教会というと、どうしてもホーリーでラブリーなイメージがありますが、実際はそれだけじゃない。それをなかったことにするのは簡単かもしれませんが、当事者にとってはなかったことにはできない、「ある」ことなんです。
僕自身が正直に生きて、素直な体験を告白することで、聞いた人が「自分もそうだった」と気付いたり、思いを口にする機会になればと思います。
元々のラッパーはMC、「Master of Ceremonies」で進行役なんです。自分が言いたいことを言うんじゃなくて、人と人をつなぐ役割なんですね。
僕自身は、ラップにはもっと、社会的ムーブメントを起こしたり、テラピーに活用したり、単に音楽にとどまらないパワーを秘めていると思っています。

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KASAI MINORI

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主にカレーを食べています。

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