滋賀県信楽町で「壁画工房101」を構える田ヶ原弘(たがはら・ひろし)さんは、教会のモザイク壁画や陶壁、墓碑、ステンドグラスなど、聖書をテーマに様々な作品を手がけています。
神道系の宗教「大本(おおもと)」の熱心な信者だった両親に育てられた田ヶ原さんの転機は高校生の頃。画集で観たミケランジェロの『最後の審判』に胸を打たれ、教会に通うようになったと言います。
――改めて、クリスチャンになるまでの経緯を教えてください。
父方の祖父の代から大本の信者で、父は三重県南部の支部長を務めていたこともありました。
幼い頃から毎日父の膝の上で一緒に経典を唱えたり、経典を通して字を覚えるような子どもでしたね。
疑問を持つようになったのは中学生の頃です。
大本の祝詞(のりと)に「神ガ オモテニ現レテ、善ト悪トヲタテ分ケル。コノ世ヲ創リシ神」という一節があります。
神様がこの世界を創られ、私を創ったことは理解できる。その神様が世の中を善と悪とで分けたら間違いなく自分は“悪”の側だ。そんな悪の側の私が“善”の側に行く道が教えられていない――。そのことに気づいたときに愕然として、大本から離れようと思いました。
ただ、神様はいると信じていたので、高校1年生の時に自分で聖書を買って読み始めました。
ヨーロッパの伝統的な絵画が聖書をテーマに描かれているものが多かったことから、身近に感じていたのです。
――ミッションスクールに通っていたわけでもなく、ご自分で聖書を買われたんですね。
読んでみて、すぐに内容が理解できましたか?
正直なところ、まったくわからなかったですね。
創世記から読み進めていたのですが、途中でつまづいてしまいました。
その後、高校3年生の時に、画集でミケランジェロがシスティーナ礼拝堂に描いた『最後の審判』を観て衝撃を受けました。
『最後の審判』では中央に罪を裁くキリストが描かれ、向かって左側にはキリストの審判によって天国へ行くことが赦された人が、右側には地獄へ堕ちる人々が描かれています。
中央よりやや右下に描かれている、左手で顔を覆い「しまった」という表情をしている人物を観て、これはまさに自分自身だと思いました。
「もしも今、イエス・キリストが来られたら自分は救われない。どうしよう」と危機感を覚え、クリスチャンの同級生に教会へ連れて行ってもらいました。
その日から教会に通うようになり、バプテスマ(洗礼)を受けたのは高校3年生の11月です。
聖書の言葉やたくさんのメッセージに触れ、「キリストこそが、私が幼い頃から探し求めてきた本当の神様、救い主だ」と確信しました。
――田ヶ原さんがクリスチャンになることに対して、ご両親から反対されたのでは…
もちろん、猛反対を受けました。
大本が大切にしている行事に参加しないと伝え、父をカンカンに怒らせたこともありました。
それでも私が大学3年生の時、母はイエス様を信じました。その後、ガンで亡くなる直前に病床洗礼を受け、父も翌年には大本の神主の職も、支部長もすべて辞めて、クリスチャンとして洗礼を受けました。
――そうだったんですね。大学では美術を専攻されていたのですか?
私自身がミケランジェロを通してイエス様と出会ったので、自分も教会の壁画を制作したいという夢を抱き、東京藝術大学絵画科に進学し、3年生以降から壁画を専攻しました。
――芸術家を志す人が第一線で活躍するのは簡単なことではないのと思うのですが、どのように造形作家としての道を歩んでこられたのでしょうか。
私が長くこの道を進んでこられた最大の理由は、不器用だからということが大きいかもしれません。
大学院生の時に、私に洗礼を授けてくださった牧師から、三重県津市に新しい施設(日本バプテスト宣教団クリスチャン教育センター)を建てるので壁画をお願いしたいというお話をいただいて、1年間かけて石モザイク壁画『天地創造』を制作しました。
これが私にとって初めて手がけた教会の壁画です。
――記念すべき、初めての注文ですね。
そうですね。
卒業してからしばらくは壁画の仕事がなく、美大受験生を教える仕事などで生計を立てていたのですが、春日部福音自由教会 丘の上記念会堂で石モザイクと陶壁を作るお話をいただきました。
しかし、東京の拠点では大きい作品を作る場所がなかったので、故郷に戻ることに決めました。
ちょうど同じ頃に銀座での個展を企画していて、それを終えてから故郷に引っ越そうと計画していたのですが、お金がなくて(苦笑)。
このままでは50万円の赤字が出てしまう、収入のアテもないのに借金をするわけにはいかない…と、個展を諦めかけたときに家内が「だめです」と言うんです。
彼女が言うには、「あなたはこの仕事のために神様から召されているんでしょう。たとえ借金ができたとしてもやってください」と。
「いやいやいや…」という思いがありながらも、その言葉に従って個展を開いてみたら、少しずつ作品が売れていって、最終的には50万5000円の利益が出ました。
最後のお客様のお買い上げ額は7万5000円だったのですが、自分が望んでいた金額を超えた分は私のものではないと、5000円はお返ししたんです。
この他にも、かつてお金を貸していた友人を通して引っ越しに必要なだけのお金が与えられたり、神様が祈りを聞いてくださっていることを感じました。
このときの経験は、今も信仰を持ち、活動を続ける上で大きな土台となっています。
――仕事がない時期もあったとのことですが、40年の間で様々なことが起こり、制作活動にも影響があったかと思います。
不安に駆られたり、揺らぎそうになったことはありませんでしたか?
本当に色々なことがありました。
バブルが崩壊した時は、当時20近くいただいていた注文がすべてキャンセルになりましたね。
今考えると、あの頃は本当におかしな時代で新しい大学ができるから壁画を描いてほしいといわれたりもしたんですが、結局大学はできませんでした。
振り返って考えてみると、いつも気づかない内に神様が私に語りかけてくださっていて、創作するときには神様が望むような形に整えてくださっているのだなと思います。
――結果としてカタチにならなかったお仕事は、神様が望むものではなかったと。
そういうことなんでしょうね。
私は、今の仕事は神様から召されたものだと思っているので、どんなに状況が変化しても「だったら別のことをしなければ」と切り替えることができなくて。
仕事がなかった時には、家内が働いて支えてくれていました。
これまで様々な波を乗り越え、こうして制作活動を続けることができているのは、本当に家内のおかげです。
このことは、ぜひしっかり書いてくださいね(笑)。
――もちろんです(笑)。
奥さまとはどちらで出会われたんですか?
高校3年生の時です。
選択科目の美術の授業で、女性をモデルに人物画を描く課題が出たのですが、私が座っていた斜め左前に座っていた彼女を見て自然体でいいなと思いました。
それで、知り合いに頼んでモデルになってほしいとお願いしたのがきっかけでした。
教会にも一緒に行くようになり、私が洗礼を受けた翌年の3月に彼女も洗礼を受けてクリスチャンになりました。
もう50年近い付き合いになりますね。
――まるでドラマのようなお話。素敵ですね。
これから作ってみたいものはありますか?
「神様のご計画」の内にあるものを作りたいと思っているので、基本的にはありません。
神様が望むものであれば、道を拓いてくださるだろうと。
――ヨーロッパの古典的な芸術作品のように、ご自身の作品を通して、聖書やイエス・キリストに触れてほしいという思いがあるのでしょうか。
そうですね。
私自身、作品を通していつも神様を賛美することを意識しています。
“神様を賛美する”ことはいつも同じではなく、常に新しい発見があり、その度に作品の表現方法も変わっていきます。
数年前から高校時代からの友人が教会に通うようになり、イエス・キリストを信じる決心をしました。
彼の話を聞いていると、私自身のあり方を通して神様に触れたことがあったそうなんですね。
自分が何を伝えるでもなく、どんなものを作るかでもなく、神様は、私が神様を信じて作り続けてきたことや、自分自身の人生そのものを用いてくださるのだなと感じています。
新約聖書の「ヨハネによる福音書」にはこう書かれています。
その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。
ヨハネによる福音書 1章9節
若い頃は、イエス・キリストはクリスチャンを照らす方であり、イエス様との関係はクリスチャンの特権だと捉えていました。
年齢を重ねるにつれて、イエス様はクリスチャンだけではなく、すべての人を照らしているお方なんだということを再認識しています。
このことを、イエス様をまだ知らない方にお話できたら嬉しいですね。
――素敵なお話を、ありがとうございました。