人生のさまざまな転機に向き合う現場で

――カトリックとプロテスタント、二つの教会で聖書を学んだとのことですが、前者と後者とでは、聖書の読み方が違うのでしょうか。

一番大きな違いは、カトリックのミサはすべてバチカンで定められている点です。聖書を読む箇所もあらかじめ決められていて、旧約聖書、新約書簡、福音書という順で朗読されます。A年・B年・C年という3年ごとの周期で、世界中すべての教会が同じ流れで行っています。

実際に、旅行でオーストラリアのシドニーを訪れた際にカトリック教会にも行ったことがあるのですが、日本とまったく同じ進行でミサが行われていました。言語がわからなくても、「いまここを読んでいるんだな」と自然にわかる。その感覚はとても興味深かったですね。

――かなり違いがあるのですね。転会された際に、ギャップは感じませんでしたか?

そうですね。プロテスタントでは、その教会の牧師が聖書のどの箇所を読むかを決めます。その解釈も牧師によって異なります。そうした解釈の余地がある点は、とても面白いと感じています。

私自身、精神科医として仕事をしていますが、たとえば一つのカルテを読んでも、解釈が分かれることがあります。措置診察という制度があり、指定医2名が一致すれば、法的な強制力をもって措置入院とすることができるのですが、その判断も、同じ話を聞いていても解釈が異なる場合があるのです。

解釈の違いは、その方の入院や治療方針を左右します。大きく言えば、その後の人生にも影響し得るものなので、とても重要だと感じています。

一方で、カトリックのように、バチカンが公式な見解を示し、それに沿って世界中で統一された形で実践していくというあり方も、非常に大きな意味があると思います。
ただ、現実の臨床では、すべてを一律に判断することはできません。人間関係や状況は常に個別的で、その都度、相手との関係性の中で理解し、解釈しながら関わり方を変えていく必要があります。

いまこうしてお話ししている場面でも、どのように受け取っていただいているかを感じ取りながら、言葉を選んでいると思います。そうした意味でも、解釈しながら関わるという姿勢は、とても大切だと感じています。

プロテスタントの教会では説教の時間が長く、その分、牧師ごとの解釈やメッセージの違いがはっきりと表れます。それを聞いて「なるほど」と思うこともあれば、自分で調べてみたり、違うのではないかと考えたりすることもあります。

そうしたプロセスそのものが、もっと知りたい、学びたいという動機につながっていると感じています。私にとっては、とても有意義な時間ですね。

――まるで、人生を通して宗教改革を体験しているようですね。
精神科医として働く中で、ご自身のように夫婦関係に関する相談されることも多いのではないでしょうか。

とても多いです。男女で、離婚の話の切り出し方や相談のされ方に違いがあると感じます。女性の方が、助けを求めるのが上手ですね。「本当に困っています、どうにかしてください」という形で来られて、こちらが話を聞いたり、ソーシャルワーカーやカウンセラーにつないだりすると、素直に応じてくださる方が多いです。

一方で男性の場合、「困っている」という話はされるのですが、強いかたちで助けを求める方はあまり多くありません。そのまま通院が続かなくなったり、気づくとお酒の問題など、生活や身体の問題へと重心が移ってしまうケースも少なくありません。

――男性が助けを求めにくい社会構造の問題もあるのでしょうか。日本ではキリスト教徒に女性が多いこととも、関係しているように感じます。

そうかもしれませんね。やはり女性の方が、助けを求めることや、人とのつながりをつくることに対して、比較的ハードルが低いように感じます。助け合いのネットワークを築いたり、そこに身を置いたりすることも、受け入れられやすい土壌があると思います。

一方で日本では、困難を抱えている人に対して、どこか距離を置いてしまう空気もあるように感じます。問題があること自体は認識されていても、「本人に原因があるのではないか」といった見方で片づけられてしまい、結果として見過ごされてしまうことも少なくありません。

――お仕事される上で大切にしていることはなんでしょうか。

一人ひとり性格も違いますし、これまでの生活歴や背景もまったく異なりますので、なるべくその方に合わせた関わり方を大切にしています。ある意味では、相手に合わせて役割を変えるような感覚に近いかもしれません。

自分と似た環境の方もいらっしゃいますが、それでも相手のことを100%理解できるわけではありません。あくまで「わかったつもり」で関わりながらも、その方にとって「理解されている」と感じてもらえるようにしたいと思っています。

そのためには、やはり相手を知ろうとする姿勢が大切だと思います。「あなたのことはわかっています」という態度は、すぐに見抜かれてしまいます。ですから、わからないときは素直に「教えてください」と尋ねるようにしています。

たとえば、新宿トー横に行く若い方の気持ちは、私には簡単には理解できません。だからこそ、「どうしてそこに行くのか」「学校以外で楽しいことはあるのか」といったことを丁寧に聞いていくと、きちんと言葉で返してくれるんですね。

そうしたやり取りを通して、「こういう世界もあるのか」と少しずつ理解が深まっていきます。できるだけその人の見ている景色に寄り添いながら関わっていきたいと、日々感じています。

教会と精神医療、人に向き合う場としての共通点

――お話を伺っていると、牧師と精神科医の仕事は似ているようにも感じますが、違いはどのような点にあるのでしょうか。

もしかすると、根本的なところでは大きな違いはないのかもしれません。実は、クリスチャンになる前から、教会の牧師や神父、お寺のお坊さんと精神科医は何が違うのだろう、とずっと考えていました。

実際、教会に来られる方も、クリニックに来られる方も、「行き先がわからない」という状態でたどり着くことが多いように思います。自分の病気をある程度調べて来られる方もいらっしゃいますが、とにかく苦しくて、という理由で来られる方も少なくありません。

そう考えると、本質的な違いがあるというよりも、その人にどう向き合うか、どれだけ誠実でいられるかといった姿勢のほうが、大きな分かれ目になるのではないかと感じています。

一方で、キリスト教には隣人愛の教えがあり、神を愛すると同時に隣人を愛することが求められます。困っている人に対して、何とかして手を差し伸べようとする動機が、はっきりと示されている点は特徴的だと思います。

それに対して医学は、もう少し距離を取る必要があります。その人の状態が正常なのか異常なのか、あるいはその中間なのかを見極めるために、一歩引いた視点で判断しなければなりません。関わりながらも、同時に冷静に見立てる必要があるという点は、大きな違いかもしれません。

ただ、そうは言っても簡単に割り切れるものではありません。薬については当然責任をもって学び、処方も行いますが、精神療法のように対話を通して関わる場面では、自分の価値観や背景がどうしてもにじみ出てくるものです。私の場合、それはキリスト教的な考え方であることが多いのだと思います。

私のクリニックの医療法人の名前が「レザレクション」なんです。復活、という意味ですね。
ヨハネによる福音書の第11章に、「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる」という言葉があります。
ここには「生きていて、わたしを信じる者は決して死ぬことはない」とも書かれていて、何度読んでも不思議な言葉だなと思います。わかるようで、わからない。でも、どこか希望のようなものを感じるんですよね。

少し話はそれるのですが、大学生の頃、ある商品のコピーで「やがて命に変わるもの」という言葉を見たことがあって、すごく印象に残っているんです。
食べ物が体に入って、それが命に変わっていく。無機的なものや有機的なものを取り込むことで、「命」という現象に変わっていく。そのこと自体がとても不思議だと感じました。
そして、その命もやがて尽きていく。現象としては終わってしまうわけですが、それでもなお「復活」ということが語られる。個体としての復活なのか、あるいは魂や精神の次元でのことなのか。
物質としての命と、現象としての命。その両方に触れている言葉なのではないか、と感じています。

――これから、どのようなことに取り組んでいきたいとお考えですか。

一つのライフワークとしては、臨床医としてクリニックで多くの患者さんと向き合うことです。そこには大きなやりがいと満足を感じています。

もう一つは、自分の歩みを何らかの形で残していくことです。今回のようにお話しさせていただく機会はとてもありがたいのですが、今後は文章としてまとめたり、発信していくことにも取り組んでいきたいと思っています。

牧師ではない、一人のキリスト教徒として、そして市民として、どのように信仰と向き合い、社会の中で生きているのか。その考えや実践を、自分なりの形で残していけたらと考えています。

「こころテラス・公園前クリニック」のHP

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KASAI MINORI

KASAI MINORI

主にカレーを食べています。

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