元ラグビー選手で、現在は都内でパーソナルジムを運営する小林竜紀さんが洗礼を受けたのは2018年。後に結婚するパートナーがクリスチャンだったことがきっかけで教会に足を運ぶようになったのだとか。
そんな小林さんと、聖書やイエス・キリストとの出会いについてお話を伺います。
――早速ですが、ご経歴から教えてください。元ラガーマンだと伺いましたが、いつ頃まで選手としてプレーされていたのでしょう?
小学5、6年生の頃にラグビーを始めて、それから中学校、高校、大学、そして社会人1年目までやっていました。
僕はケガが多い選手で、何度も大きな手術をしていたのですが、大学生4年生の時に顔の陥没骨折をする大ケガをしてしまい、さすがにこれ以上は続けられない、次は命を落としかねないと引退を決めました。
この時点で既にラグビー枠での就職が決まっていたため、いったんはそのまま入社したのですが、そもそもラグビーが動機で就職先を選んでいたため、やはり自分には合わなくて…。
すぐに辞めて、ジムでインストラクターとして働くようになり、昨年独立しました。
――スポーツジムも多様化していますが、小林さんが運営するジムはどんな特徴がありますか?
いわゆる1対1でトレーニングを行う「パーソナルジム」です。
といっても、ダイエットやボディメイクのためのジムではなく、肩こりや腰痛、変形性関節症、過去に手術をされた方など、さまざまな不調を抱えている人が、元通りに動けるようになることを目的としています。
通っている方のほとんどがケガをされた方で、病院を受診しても湿布と痛み止めを処方されるだけで、根本的な治癒にはつながらないという人や、70代以上の高齢者の方も通っていらっしゃいますよ。
――痩せる、鍛える系のジムが多い中で、なぜそうしたコンセプトのジムを始められたんでしょうか?
ダイエットを目的としたジムでも働いたこともあったのですが、そもそも僕がダイエットに興味がないんですね。自分にはちょっと合わないな…と思っていた時に紹介されたのが、理学療法士が常駐しているジムでした。高齢者の方が対象で、「歩けなくなった人をどんなアプローチでもう一度歩けるように回復させるか」など学ぶ中で、これは自分にぴったりだと思いました。
僕自身、現役時代、大きなケガをしたことで、時間が経っても体が思うように動かせないという経験を何度もしてきました。今の僕が過去の自分を見ることができたら、治すためにももっと違うアプローチができたかもしれないと思うこともあります。だから、痛みがあったり、運動したいけれど叶わない方の気持ちは痛いほどわかりますし、少しでも力になれたらと思います。
――説得力があります。公式HPやSNSのアカウントはお持ちではないんですね。
HPやSNSでの情報発信をしていないのは、僕のジムも高齢者の方を対象にしているため、見る方が少ないからです。
口コミのみだと思うように集客しきれませんが、それでもお客様が途絶えていないことは、神様に感謝しています。
なるほど。お話が前後してしまいますが、洗礼を受けたことはスポーツやお仕事と関係がありますか?
独立するきっかけになったジムの前に働いていた総合フィットネスクラブで、ダンスインストラクターとして働いていた今の奥さんと出会ったことがきっかけです。
当時の僕はいわゆる無宗教で、教会に誘われてもまったく抵抗はなく、「これから結婚する相手が信じているものを共有するのもいいだろう」という感覚でした。
日曜日の礼拝に参加するようになり、メッセージ(説教)を聞いたり、聖書に触れたりしている内に、これは素晴らしいなと思うようになりました。
――年齢を重ねるほど、価値観が覆るような経験は少なくなると思うのですが、何がそんなに小林さんの心に刺さったのでしょう?
これはあまり人に話したことはないのですが…自分が長年、疑問に感じていたことを聖書が解消してくれたんです。
その疑問というのが――「進化論」ってありますよね。
――ヒトとサルには共通の祖先がいて、枝分かれして進化したという、あれですか?
そうです。僕は小学生の頃からあの話が信じられなくて、なんで人間だけ進化したんだろう?とずっと疑問のままでした。
大人になってからも、体のこと――筋肉や骨、神経、臓器のこと――を学べば学ぶほど、初めから人間として完成していなければ説明がつかないだろうと感じていたんです。
そうしたら、聖書の冒頭には「神様が自分に似せて人間を造った」と書かれている。「そうか、そういうことだったのか」と、ようやく腑に落ちました。
神は言われた。
「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。そして海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うものすべてを支配させよう」
神は御自分にかたどって人を創造された。
神にかたどって創造された。 男と女に創造された。
【創世記 1:26-27(新共同訳)】
もしかしたら、(キリスト教や聖書への)入口としては、ちょっと変わっているかもしれませんね。(笑)
――確かに、なかなかないかもしれません。(笑)
「競技に勝つこと」が最大の目的であるアスリートにとって、キリスト教の価値観を受け入れるのは難しかったのでは?
その頃には、もう現役ではなかったのでその点での難しさは感じなかったです。
ただ、選手だった時代は、試合の前に神仏に祈るようなことは絶対にしなかったです。神頼みにすることで、それまでの自分の努力を否定するような気がして…。
洗礼を受け、聖書を読めば読むほど、人生において大切なことは“勝ち負け”ではないと思うようになりました。今で言えば、稼ぎの多い・少ないではなく、今日という新しい1日が迎えられ、今日も仕事が与えられていることだけで感謝です。
もしも、現役時代にこのことに気付けていたら、もっと選手としてプレーができる喜びは大きかっただろうと思います。
――現役時代、相当大変だったのでしょうね…。
そうですね。日本のスポーツ業界の“あるある”かもしれませんが、とにかく監督が絶対的な存在で、「自分のやり方が気に入らなければ辞めろ」という世界でした。
上手くなりたい、勝ちたいから努力するというよりも、監督が怖いからやっている。もはや恐怖でしかなかったですね…。終盤には、ラグビーをプレーする楽しさも失いかけていました。
ラグビーが盛んな南半球ではよく、試合後に敵も味方も関係なく、円陣を組んでお祈りするんです。もう、価値観が根本的に違うんですよね。
選手だけでなく、日本の指導者にもクリスチャンがいたら、よりよりチーム作りだったり、よりよいプレーにつながるんじゃないかなと感じます。
――ニュース等でも指導者から選手への暴力行為等がたびたび問題になります。そんな指導者ばかりではないと思いますが、指導者にとっても、チームの勝敗が自分の評価につながるわけですしね。
ええ、そうなるともう、指導者のエゴでしかなくなってしまうんですよね。
今では僕は教える側になりましたが、「良くなってほしい」という思いが先行しすぎると厳しい指導になってしまいがちで、ハッとします。
大切なのは、お客様一人ひとりに合ったペースや方法で進めつつ、しっかり結果を出すこと。簡単なことではありませんが、毎日、神様がお客様と僕との関係を取り持ってくださるように、少しでも効果が感じられる指導ができるように、祈りながら仕事に取り組んでいます。
――選手時代とは、人生観や人との向き合い方が大きく変わられたように感じます。
かなり変わりましたね。
聖書を読むようになったことで、自分の立ち居振る舞いを振り返り、おごっていたことにも気づかされましたし、自分の力に頼らず、委ねることを学びました。
――最後に、今後の展望はありますか?
次のステップとして、新しい社員、一緒に働く仲間を増やせたらいいなという思いがあります。現在は一人でジムを運営しているのですが、ワンマン経営を続けていると、“王様気質”が出てきてしまいそうで…(笑)。
もう一つは、自分が選手時代から感じていた指導者の問題に取り組んでみたいという思いもあります。自分自身の経験や、聖書に基づいた指導をする機会が与えられたらと祈っているところです。
――スポーツに携わるすべての人が、心からエンジョイできる環境が整えられたら素敵ですね。
今日はありがとうございました!