2025年7月、京都市北区に小さなパン工房「άρτος(アルトス)」がオープンしました。店主の中島爽(なかじま・そう)さんは祖父や父親が牧師というクリスチャン一家に生まれ、同様に牧師になることを期待されて育ちました。しかし、神学を学ぶなかで「本当に自分がやりたいことはこの道ではない」と気付いたといいます。前編ではそんな中島さんのこれまでの歩みについて伺います。
――中島さんはいわゆる“クリスチャンホーム”で生まれ育ったのでしょうか。
そうです。祖父と父が牧師で、母親もクリスチャンという家庭で育ちました。
――どんな子ども時代でしたか?
家族がクリスチャンということもあり、キリスト教と密接にかかわっていたと思います。とはいえ、子どもの頃の僕自身は、神様とは出会えていなかったですね。
でも、要領がよかったので、教会や家ではきちっと真面目にふるまい、学校やそれ以外の場所では全然違う一面を見せていました。むしろ教会や家の方が、言えないことがいっぱいあったんです。
中学2年生のときに洗礼を受けたのですが、それもほとんど自分の意思ではなくて。自分自身が神様を求めるようになったのは、25歳を過ぎてからです。
――多感な時期に洗礼を受けられていますが、反抗期はなかったのでしょうか?
高校生から進学を理由に実家を離れてひとり暮らしをするようになったので、物理的な距離ができた分、反抗する必要がなかったんです。
ただ、実家を離れたことが、改めて神様と出会うきっかけになったと思います。
――自分で神様を求めるようになったり、「出会った」という感覚を得たのはいつ頃ですか?
高校卒業後、岡山大学に進学し、さらに卒業後に関西学院大学神学部の3年に編入しました。色々な葛藤はありつつも、父や祖父を含め、牧師という仕事に対するリスペクトはありましたし、一度勉強してみないことには(牧師の仕事が自分に合うか)わからないな、と。キリスト教は自分のルーツでもあるので、学ぶこと自体は楽しかったんですが、自分が牧会をしてキリスト教を広く伝えていくイメージは、どうしても湧かなかったんです。
そんなときに同じ神学部の友人が、聖書のイエス様が盲人の目を癒した場面から、大切なことは「自分がどうしたいか」だと気づかせてくれました。
イエスは彼にむかって言われた、「わたしに何をしてほしいのか」。その盲人は言った、「先生、見えるようになることです」。 そこでイエスは言われた、「行け、あなたの信仰があなたを救った」。すると彼は、たちまち見えるようになり、イエスに従って行った。
[マルコによる福音書 10:51-52 ]
イエス様は「わたしをあわれんでください」と言った盲人が、目が見えるようになりたいことはわかっていたのに、「何をしてほしいのか」とあえて言葉にさせた。そのひと言が、自分の願いを自分で認める一番最初の、そして最も大切なステップです。私はずっと、家が教会だからとか、周囲の期待に応えなきゃという思いが先に立って、自分の本当の気持ちが消されてしまっていました。

キリスト教とはこうあるべきだ、神様とはこうだ、という話は教わるけれど「じゃあ自分はどうなんだ」という問いが置き去りになっていた。でも、イエス様も聖書の中で「求めなさい」と言われますよね。まずは「自分はこうしたい」という思いがあって、それをどう取り扱うか、どう発芽させていくかが宗教の大切な部分なんじゃないかなと思います。
その頃の僕は、学校以外のいろんなことも、自分をがんじがらめにしていたんです。それを一つひとつ見つめ直して、「本当に自分がやりたいことなのか」「自分発信でこうしていこうとしていることなのか」と考えたんです。そうすると、やっぱり違うこともたくさんあって……その過程の中で、牧師になるというのは、今の自分が本当にやりたいことではないと気づきました。それで、牧師の道へ進むことも、大学も辞める決断をしたんです。
――大学も辞めてしまったんですね。
はい、そのあとは就職活動をして、東京で社会人としてのキャリアをスタートしました。
その頃からですね、神様を本気で求めるようになったのは……。礼拝にちゃんと出席して、日々の中で習慣的に祈るようになって──ひとりの信者としてフラットに、自然に神様と向き合えるようになったのが、この時期です。
――やっと神様と“直“につながったというか……。
そうですね。人に対しても、フィルターをかけずに接することができるようになり、「わからないことはわからない」、そんなスタンスでいられるようになりました。
――大きな転機ですね。ちなみに、東京ではどんなお仕事をされていたのでしょうか?
住宅設備メーカーの営業職です。
――あ、パン屋さんではないんですね。(笑)
そうなんです。(笑)
当時は自分の気持ちよりも、周りや社会が「こうすべきだ」と思う方向に流されてしまって。普通に就職活動をして、ちゃんとした企業に入って……結局は全く同じことをやっていたんです。自分の意思というより、「社会的に正しい」道を選んでいたという感じですね。(苦笑)結局3年ほど働いて、退職しました。
――「違うな」と感じたきっかけがあったのでしょうか。
初日から「違うな」ということはわかっていたというか……そもそもどうしてもやりたいという気持ちで始めた仕事ではなかったので、いつかまた違う道を考えなければならないタイミングは絶対に来ると思っていました。
とはいえ、営業職として物を売る仕事が向いていたのか、意外と成績が良くて(笑)。
痛感したのは、人が決めた枠の中で働くのは苦手だということ。僕は家族を大事にしたいという気持ちが強くて、子どもの発表会があれば休んで参加したいし、できれば毎日子どもと一緒に食事がしたい。そう考えたときに、自分で選択できる働き方のほうがいいなと思ったんです。

もうひとつ、大きかったのは、僕が売っているのは「自分で作ったものではない」ということです。どうすれば売れるか、戦略を考えるのは楽しかったのですが、売れば売るほど会社が潤うわけでもないし、お客さんの要望に自分の力だけでは応えられない状況にもどかしさを感じていました。そんなときに「自分で作ったものを売ることができたら、楽しいだろうな」と思ったんです。
それに、僕は岡山、妻は関西出身ということもあり、関東での暮らしがどうしても合わなかったということもありました。
――だんだん、パンに近づいてきました(笑)。東京は便利ですが、人が多くて疲れるかもしれません。
人の多さもそうですが、空気感がちょっと違うんですよね。たとえば会社で誰かが髪を切ってきたら、関西だったら「おっ、切った?」って必ず突っ込みが入る。でも関東ではだれも何も触れないんです。そういうちょっとした違いも、自分には合わなかったのかなと思います。
――ちょっとわかるような気がします。
