東京・千代田区の女子学院で美術科教諭を務める荒木寛人(あらき・ひろと)さん。牧師の息子として教会に生まれ育ち、「神様に与えられた出会いを大切にする」をモットーに生きているといいます。前編では、そんな荒木さんの半生を伺いました。
――美術の教員を目指されたきっかけはなんだったのでしょう?
子どもの頃から絵を描くことが大好きでした。
牧師家庭に生まれ育ったので、毎週日曜日には子ども礼拝と大人のための礼拝、2回参加していたんですね。ところが、子どもには大人向けの礼拝の内容はさっぱりわからない。だから、週報(※)の空欄に落書きをして遊んでいました。(笑)
それから、歳の離れた兄が建築士で、日常的にスケッチを描いたり、図面を引いたりしている姿を見ていたことも影響しているんじゃないかな、と思います。
※週報…毎週、礼拝の際に配布される印刷物のこと。式次第や特別なお知らせ、聖書のメッセージなどが書かれていることが多い
――初めから、画家やイラストレーターではなく、教員を目指していたんですか?
「学校」という場所が好きだったんだと思います。
過去にはいじめを受けたり、辛い経験もあったのですが、文化祭のように授業以外にみんなで作り上げていく場が楽しかったんですね。
大人になってから改めて思うのは、本来は地域のコミュニティでもそれはできると思うのですが、時代的にもだんだん難しくなっている。世代間で分断されていたり、そもそも近所の人とコミュニケーションを取らない人も増えていますよね。
これが学校となると、子ども同士だけでなく、保護者同士もつながりやすくなります。そういう、「学校」という場所が持つ力に、今も魅力を感じています。

自身が描いた絵本を手にする荒木さん
――差し支えなければ、いじめを受けていた時期のことを伺ってもいいですか?
はい、大丈夫ですよ。小学5年生くらいまでは、――自分でいうのもおかしな話ですが――どちらかというとクラスでは目立つ存在だったんです。ある時、それまで仲が良かったリーダー格の女の子と関係が悪くなってしまって……そこから約1年間、クラスメイトに無視され続ける日々が続きました。とても辛くて、授業中はとにかく勉強に集中して、休み時間は隣のクラスの友達に支えてもらって……という日々を送っていました。
結局、別のクラスメイトが「やめようよ」と言ってくれたことで僕に対するいじめは止んだのですが、今度はその子が標的になってしまったんです。僕は助けてもらった子を救い出す勇気もなく、いじめが止んだことでホッとしている自分もいて……当時、すでに洗礼を受けていたのですが、自分の醜さを痛感しました。
――その経験も、今につながっているようにも感じます。いわゆる「親の信仰」から、自分自身の信仰に変わったきっかけはなんだったのでしょうか。
僕は5人きょうだいの末っ子で、親が年齢がいってからの子どもなんですね。授業参観でクラスメイトのお父さん、お母さんと並ぶと、明らかに年齢が上だということがわかります。
だからか、幼い頃から「僕は早くして父と別れなければならないんだろうな」という感覚がありました。「父や母が死んでしまったらどうしよう」「人は死んだら何もなくなってしまうんだろうか」と悩んでいたときに、「そういえば、いつも礼拝では、聖書ではそれは違うと言っていたぞ」と思い出したんですね。
幼稚園教諭の経験もあった母に相談したところ、聖書が伝えていることを丁寧に、わかりやすく伝えてくれて。そういうことだったんだ、と5歳の時に洗礼を受けました。
――かなり早い段階で、死生観を持っていたんですね。そこから信仰が揺らいだことはなかったのでしょうか?
もちろん、一度も揺らがなかったわけではありません。(苦笑)
大学生の時に、6年ほどお付き合いしていた方とお別れしたことで落ち込んでしまって。さらに、自分は子どもの頃から教会の2階に住んでいて、ルーティーンのように毎週礼拝にも参加してきたけれど、このままでいいんだろうか、自分は本当に教員になるんだろうか、といろいろ迷いが出てきて……。そんな僕を見かねたのか、大学の指導教官の先生が「愛媛県の小学校にボランティアに行ってみないか?」と声をかけてくれました。
約1か月間お世話になったのは、周囲を自然に囲まれた、全校生徒わずか31名の小さな小学校でした。下宿先から小学校まで、毎日自転車で通っていたんですが、ある日、海に沈む夕日を見ながら号泣してしまったんです。当時の私は自分自身の信仰のもろさや、好きだった人に愛されていなかったことに対する寂しさ、いろんな思いを抱えていましたが、改めて、自分がどれだけ神様に愛されていることを実感したんですね。愛媛の自然や、この場所で過ごした時間の中で、癒やされていく感覚がありました。
ボランティアの最終日は運動会でした。教員も保護者も朝5時に集合して、万国旗を掲げたり、いろんな準備をしたり、みんなで日の出を見ながら「晴れたね!運動会ができるね」と言い合って。その光景を見て、すごく感動しました。やっぱり学校の先生っていい仕事だなぁ、自分もこんな場所で働きたいなぁと思ったんです。
――素敵な原体験ですね。
実家に戻ってから、予定どおり教員採用試験を受けたのですが、もしも縁があったら……と愛媛の採用試験も受けました。愛媛は残念ながら採用されなかったのですが、東京で教師として働くことになりました。
私立の高校で2年間、東京都の公立高校で産休代替教員として1年間勤めたのちに、現職場の女子学院に勤務することになりました。
――ご自身がクリスチャンということもあって、キリスト教主義学校で働きたいという思いがあったのでしょうか。
初めは強く願っていたわけではないのですが、教員として働き始めてからは、より強く思うようになりましたね。でも、望んだからといってすぐに勤務校が見つかるわけではありません。
実は、初めに勤めていた学校の先輩が「荒木くんはクリスチャンでしょう。今女子学院が美術科の教員を募集しているから、ぜひ応募してみなさい」とわざわざ連絡をくださったのがきっかけだったんです。その方はクリスチャンではなかったのですが、僕がクリスチャンだということを覚えていてくださったんですね。嬉しかったですし、今でも感謝しています。
後編に続く。