教会をはじめ、お寺や神社など宗教法人のサポートを行う行政書士として事務所を構える傍ら、Xアカウント「上馬キリスト教会twitter部」の「まじめ担当」として、日々キリスト教にまつわるあれこれを呟いているMARO(マロ)さん。著述家として、さまざまな切り口で聖書やキリストの言葉をわかりやすく伝えています。
そんなMAROの歩みについては、多くの著書でも触れられていますが、前編では改めて子ども時代のお話や聖書との出会いについて伺いました。
――公式プロフィールで「クリスチャンではない家庭に育ち、23歳の時に洗礼を受けた」と公表されていますが、どんな子ども時代を過ごされたんでしょう?
幼い頃はケンカばっかりしていましたよ。
(生まれつきの脳性まひが原因で)足が悪いので、いじめの対象になりやすいんです。そのままだといじめられっぱなしになるからってやり返してると、ケンカになる。
家ではサイコロを振って遊ぶのが好きでした。
1人ですごろくをやったり、サイコロの目は本当に1/6の確率で出るのか検証したり。1000回くらい振って、「正」の字で数えながら「3が少ないな、3がんばれ!」なんて遊んでました。根暗だったんですよ。(笑)
――根暗というか、研究者体質というか……。慶應大学に進まれますが、もともと勉強は得意だったんでしょうか?
そうですね、それなりに勉強はできました。
とくに勉強が好きだったわけではないですが、成績が悪いと親父にものすごく怒られるんですよ。だから、なるべく少ない勉強量で、殴られない程度の点数を取るかを考えていました。
――慶應大学に進んで哲学を学ぼうと思われたのはなぜでしょう?
慶應に決めたのは、赤本を見ながらなんとなく「ここに行くだろうな」と思ったんです。(笑)
哲学を学びたかったというか、原点には「なんで自分は足が悪いんだろう?」という疑問があって。多分、自分と人とは違う世界が見えているんだろうなということはずっと感じていました。
――話が前後してしまいますが、自分がいわゆる“みんな”とは違ったり、できないことも多かったりすることで、葛藤したり、苦しい思いをされたことはありますか?
もちろん、ありましたよ。
できるだけやろうとチャレンジもするし、どうしてもできないことについては「他の人にできないことをやればいいのか」と考えるんです。
例えば、体育の授業でサッカーをやった場合、僕はチームの役には立ちません。そんなときに僕はこう考えるんです。「待てよ、役に立たないということは、退場になったとしてもチームの損失にはならない」つまり、僕が相手チームの選手に体当たりして戦闘不能にしたら損失が出るのは相手だけで済むわけです。もちろん、これは反則ですから絶対にやってはダメですよ!
僕はハンデを付けられたり、1人で見学させられたり、特別扱いをされるのが嫌だった。だから、自分にできることをいつも考えていました。
――すでに哲学的ですね。
子どもの頃からそうだったみたいです。
風が吹いていれば「この風はあっちから吹いてきている」から、最終的に「この風はどこから生まれたんだろう」とか。
3~4歳ぐらいの頃、道が先にあってそこに建物が建つのか、それとも建物が先なのか、どっちなんだろう?と考えていたことをよく覚えています。
『聖書を読んだら哲学がわかった』にも書きましたが、哲学と出合うまではわからないことが苦しくて仕方がなかったんです。これは自分だけなんだろうか、精神がおかしくなってしまったんだろうか……と思っていたら、高校の倫理の授業で、ソクラテスやら昔から同じようなことを考えていた人たちのことを知って「同類がいるじゃん!」と嬉しくなりました。
倫理の教科書の中にはそんな同類の――もしかしたら、ほかの人から見たらちょっとおかしな人のことばかりが書いてある。これを勉強したい、と思うのは当然の流れでしたね。
――ちなみに、哲学者を目指していたんでしょうか?
いやいや、まったくそんなことはなくて。
高校1年生でバンドを組んでいて、ミュージシャンになりたいと思っていました。
というかそもそも、あんまり将来のことを考えてなかったですね。
未だに人生の計画がないくらいで。(笑)
ミュージシャンを引退して、行政書士としてやっていくかと思ったら「本を書いてみないか」とお話をいただいて――子どもの頃から一貫して、「今やりたいことをやる」という感じで今に至ります。
――クリスチャンとしてのバックグラウンドがないMAROさんが、洗礼を受けたきっかけは?
洗礼を受けたのは大学生の時です。ちょうど卒論を書いていた時期に初めて教会に行きました。
その頃はすでに、自分はクリスチャンだと思っていたんですが、誰もそれを証明してくれる人がなく、このままだと「自称クリスチャン」でしかない。この先キリスト教を宣べ伝えるにしても、「あなたの根拠はどこにあるの?」と言われた時に何も返すことができません。これは、2000年以上続く伝統に根ざす「教会」に籍を置く必要があると思って、洗礼を受けたんです。
――そもそも信仰を持ったのはなぜでしょう?
哲学をやっていると、結局どの道に進んでも“究極の真理”がわからないんです。この人の思想だったらたどり着けそうだな……と思ってもやっぱりわからない。
よく言われるんですが、哲学って“屍の山”なんですね。この道も、あっちの道もダメだった、屍を乗り越えて進んでも結局途中で倒れる――。その繰り返しです。
本気で「もうわからないなら、いいや」と死んでしまおうかと思ったことがありました。その時に、小学生の時に拾った聖書に「死ぬなら、3日だけ信じてみない?」と言われたような気がしたんです。
――聖書を拾った!?
おそらく無料で配布された聖書を、誰かが捨てたものだったんじゃないかなと思います。僕はそれをなんとなく捨てられなくて、ずっと家に置いてあったんですね。
それまでも図書館で聖書は読んでいたんですが、それはあくまでも“否定するため”で、「こんなことあるわけないじゃん」と思いながら読んでいたんです。
それが、「じゃあ、3日だけね」と改めて読んでみたら、意外と筋が通っているな、と感じられて。
――まさに命を救われたんですね。個人的なイメージで申し訳ないんですが、哲学者は宗教を嫌いなのではと思っていました。
嫌いというか、近代の啓蒙主義以降の哲学には「神を持ち出してはいけない」という暗黙のルールがあります。
詳しくは『聖書を読んだら哲学がわかった』で書きましたが、カントが唱えた「定言命法」だったり、色んな哲学者が言っていることって、結局は神様のことを言い換えて語っているんですよ。
――そうなんですね。洗礼を受けられてから、人生に変化はありましたか?
「人生は自分で動かすものだ」という理性中心、自分中心の考え方から、「神様が決めたように動くのだから、あれこれ計画を立てても仕方ない」と神様中心の考え方に変わりました。
よくよく世の中を観察してみると、自分の力でどうにかできることって実はすごく少ないんですよね。そしたらそれは手放して、神様に任せてしまえばいい。そうすると、どんどん身軽になって、ラクになります。
――“こだわり”、執着しているものを手放すというか。
あれもこれも気になってしまうのはわかりますが、気にしたところでどうにもなりません。
そんなことよりも、今日の晩ごはんをおいしく作ることを考えている方がよほどいいなと思います。それは結構、自分の力でもどうにかできるから(笑)
――MAROさんはこんな風に、「上馬キリスト教会twitter部」として聖書にまつわるあれこれや“教会あるある”を呟いてきたわけですが、SNSで発信しようというのはだれのアイデアだったんでしょう?
「ふざけ担当」のレオン君と二人で始めたことです。
以前から、キリスト教も聖書も“当たり前”のものとして受け入れられるようにしたいね、という話はしていたんです。
いまは状況も変わっているかもしれないけれど、当時は「クリスチャンって何?」「怖い」「聖なる人なんでしょ?」等々、偏見を持つ人が多かったんですよね。
――私もそうでした。クリスチャンといえば「敬虔な」が枕詞で。
そうそう。でも、敬虔じゃないクリスチャンもいるし、なんだったらほとんどのクリスチャンは敬虔じゃない(笑)
もっと当たり前のこと、例えば「ガンプラが好き」とか「アニメが好き」と同じような感覚でクリスチャンの存在を伝えたいと思いました。
――「#違法ではないが一部不適切 イエス、高須クリニック」のツイートで一気にバズッたとか。一方で、“出る杭”を打ちたがるクリスチャンも多かったのでは?
めちゃくちゃいましたし、今もいますよ(苦笑)。
でも、僕らのSNSをきっかけに「聖書に興味を持ちました」と言ってくれる人がいる。
クリスチャンの方には色々言われるんですが、「ごめんなさい、あなたたちはターゲットではないです」という感じですね。
――イエス・キリストは、聖書の時代の人たちに対して、彼らがわかりやすいようにたとえ話をしていますが、今の時代の人たちに同じたとえ話をしても伝わらないんじゃないかな、ということはよく思っていました。
そうですよね。
最近、海外からたくさんの観光客が日本に来ていますが、インバウンド向けのお店と日本人向けのお店ってちょっと違うんですよね。海外の人に日本文化を伝えるときにはやっぱり、ある程度デフォルメが必要だったりする。
お茶を飲むにしたって、正座をしなければならないというだけで海外の人にとってはハードルですから、もう少し気軽に楽しめるようになっていたりするわけです。そこに茶道ガチ勢が来て「正座しなきゃダメ!」と言ったところで、「あなたたちはターゲットじゃない」ですよね。
まずは楽しんでもらうこと。ルールやお作法は後から覚えればいいんです。一度体験してみて、本当に好きだったら自分からもっとやってみよう、学ぼうとするでしょう。
――本当にそうですね。
僕は日本の伝道の在り方に対して「どこを向いているの?」と苦言を呈することも多いんです。伝道は聖書を知らない人に伝えることが目的のはずなのに、クリスチャン同士で「ハレルヤ!」とお互いをちやほやすることに留まっていたら、意味がないですよね。
もっと言うと、クリスチャンに向けて聖書の広告を打っても意味がないんですよ。日本人の99パーセントが聖書を持っていないわけですから、ターゲットを変えて打つだけで「聖書って、普通に書店で買えるんだ」と興味を持ち、購入する人がいるかもしれない。
それに「キリスト教」でなくても、聖書は読んで面白い書物だと思うんです。物語としても面白いし、人生の説明書としてもかなり優れている。だから、それを知らずに生きていくなんてもったいないな、と思いますね。
後編に続く。