千葉県八千代市を拠点に制作活動を行っている油彩作家・林 美蘭(りん・みらん)さん。「女性という美について」をテーマに描かれる作品は、豊かな色彩と、力強く温かなタッチが見る人を惹きつけます。前編では、聖書と出合ったきっかけや、人生のターニングポイントについて伺いました。
――いつ頃から絵を描かれているのでしょうか。
父が画家なんです。だから私の場合は、自分の意思で描くようになったというよりも、親に言われて幼い頃から「描かされていた」のが始まりでした。
もちろん、それをきっかけに絵を描くことが好きになるわけですが、6歳の頃、有名な絵画を模写させられて、うまく描けないと夜遅くまで寝かせてもらえなくて。泣きながら描いていたのを覚えています。
――むしろ絵を描くことが嫌いになってしまいそうなエピソードですが……。
父親が絶対的な権力を持つ家庭で育ったので、そういうものだ、と受け入れていたのだと思います。
もちろん、親に反発した時期もありました。私は国際政治ジャーナリストになりたかったのですが、父は美大で絵を学んでほしいと願っている。大喧嘩もしましたが、学費を出してもらう手前、美大受験を選びました。
ただ、二浪しても美大には受からなかったんです。
――そこで何かスイッチが切り替わったということでしょうか。
というよりも、二浪したときに目の前がパッとひらけて、「もういいや」と思ったんですね。
ここまで美大一本で目指してきたので、これから一般学科を勉強し直すのは厳しいだろう、だったら自分には絵しかないな、という感覚でした。
――お父様の反応はいかがでしたか?
今となってはすごくがっかりしていたんだろうなとは思いますが、当時の私は父を気遣う余裕もなくて。
目の前がひらけたからといって、決してハッピーだったわけではないんです。
ここまでの話でご想像がつくかと思いますが、父はいわゆる男尊女卑タイプで、母が追い詰められた母が家を出てしまい、家庭内がかなり荒れていた時期でもありました。
――美蘭さんのご家庭はクリスチャンホームだったわけではないんですよね。
そうです。私自身は、小学生の頃からなんとなく「神様はいる」と思っていましたが、その神様がだれなのかわからなくて。
あるとき、偶然出会ったエホバの証人の信者の方から聖書をもらって、神様のことが書いてあるからと読むようになりました。毎年開かれる大きな大会にも誘われて、参加したりもして。その頃は信仰がどうというよりも、そこでもらえるパンがおいしくて、楽しみだったんですね。(笑)自主的に聖書を読んでいることで、大人の人たちに褒められるのも嬉しくて。
初めて教会に行ったのは、中学2年生の頃です。
そこはスイスから来た宣教師の方が牧会しているプロテスタントの教会で、改めて聖書が伝えていることを教えていただきました。このときに「イエス・キリストを受け入れますか?」と問われ、「受け入れます」と答えたときから、クリスチャンとしての人生がスタートしました。
――エホバの証人とプロテスタントの教会とでは、聖書の内容をはじめ、いろんな違いがあったと思うのですが、違和感はなかったですか?
比べてみれば聖書の内容が違うことはわかるのですが、当時はあまりよくわかっていなかったので、比べることもなく、そのまま受け入れてしまったという感覚でした。
――そういうものなんですね。ご両親の反応はいかがでしたか? ここまでのお話だと、お父様が反対されそうにも思いますが……。
両親は、聖書を読むことそのものは“良いこと”として捉えていたようです。ただ、家庭環境がとても複雑だったことと、私自身が両親に対して壁を作ってしまっていたので、隠れて教会に通っていました。
洗礼を受けたのは21歳の時です。
――二浪されたタイミングと重なるんですね。
そうですね。いろいろなことが重なって思い悩み、しばらく教会に行かなくなっていた時期もありました。
不思議なんですが、「やっぱり神様はいないんだ」と思ったときに、目の前から光が消えてしまいました。色は見えているんだけれど、本当に一瞬にして光が消えてしまったんです。そのときに、「世の中にあるのはモノだけなんだ。運命なんてものはなくて、モノとして存在して、モノとして消えていくだけなんだ」と、思いました。
それから少し時間が経ったある日曜日、久しぶりに参加した礼拝でこの聖句が読まれました。
主は仰せられた。『外に出て、山の上で主の前に立て。』すると、そのとき、主が通り過ぎられ、主の前で、激しい大風が山々を裂き、岩々を砕いた。
列王記第一19章11~12節
このメッセージが心にすごく心に刺さり、「神様は本当にいるし、私は神様に呼ばれているんだ」と確信したら、一気に世界に光が戻ってきました。それで、そろそろ洗礼を受けよう、ということになったのです。

《マグダラのマリア・目覚め》林 美蘭
――21歳で洗礼を受け、「これから絵で生きていく」と決めてから、どんな風に活動を広げていかれたのでしょうか。
まず、「食べていく(ためにお金を稼ぐ)」ことと、「画家として成功する」ことを両立させたいと思いました。幸い、父には娘が画家になるのをサポートしたいという想いがありますから、実家には置いてもらえていましたが、食べていくためには働かなくてはなりません。ただ、やはり絵を描くことを生活の中心にしたかったので、工場や食品サンプルの配布など派遣のアルバイトをしたり、ギャラリーに作品を出展したり……という生活を送っていました。
次のターニングポイントになったのが、2009年です。
――2009年にどんな体験をされた何のでしょう?
この年、私はインドに渡りました。
もともと国際政治ジャーナリストを目指していた背景には、紛争が起きている地域で社会貢献をしたいという思いがありました。
その後もずっと、絵を通して何かできることはないかと探していたのですが、海外青年協力隊などを調べても医療や農業の分野の募集はあっても、社会貢献と絵が結びつくことはないんだなと諦めかけていました。
そんな時、「声なき者の友の輪」というクリスチャンが立ち上げたNGO団体の存在を知りました。定期的に送られてくるニュースレターの中で、インドで社会問題をテーマにした作品を作るというワークショップが紹介されていて、私もぜひこのワークショップに参加したいと思ったんです。
そこからお金を貯めて、初めて2009年に参加することができました。
私が参加したグループ「地の塩」はインド国内外から集まったアーティストで構成されていて、5日間同じ場所で寝泊まりをして制作を行いました。テーマは「希望」です。制作そのものは個々に行うのですが、毎朝集まって課題について話し合ったり、完成した作品を発表したり。当時の日本は、絵と社会課題を組み合わせて表現することや、政治的な作品を発表することは敬遠されていたので、インドだからこそできた体験でした。
それまで私は、クリスチャンに向けて、あるいは自分の内面を表現するために絵を描いていて、どこかで自分は「天才」にならなくてはと思っていたんですが、こんな風にみんなでひとつのテーマについて話し合って、自分の作品を制作する――ゆるやかな共同体ができるんだということを体感しました。ひとりで作らなくていいし、絵を通して社会課題に応答することもできる。彼らのコミュニティの作り方もインパクトが強くて、日本でも同じことをやりたいと思うようになりました。
後編に続く。