東京都葛飾区を拠点に、発達障害やギフテッド、不登校など、生きづらさを抱える子どもたちをサポートしている「翼学院グループ」。2026年には東京都「2050東京戦略」DX推進事業に採択され、発達障害児支援に活用するAI開発プロジェクトにも取り組んでいます。
学院長の芦澤唯志(あしざわ・ただし)さん自身も、ADHDの当事者です。小学校から大学まで不登校を経験し、社会人になってからも規則正しい生活が苦手で、長く苦しんでいたといいます。
うつを経験するなかでイエス・キリストと出会い、30歳で受洗。「自分と同じように苦しんでいるこどもや保護者の力になりたい」という芦澤さんに、これまでの歩みと、今の活動へとつながった原点について伺いました。
生きづらさを抱えて歩んだ半生
――発達障害当事者とのことですが、どのような環境で育ったのでしょうか。
幼少期から、ADHD(注意欠陥多動性障害)や協調性運動障害があり、「生きづらさ」を抱えていました。家庭環境も複雑で、製本業を営んでいた父から激しい暴力を受けながら育ちました。
父の愛情は常に条件付きでした。例えば、「大学に進学した自分は愛されるけれど、中退した自分は愛されない」というように、父の期待に応えられるかどうかで、自分の価値が決まるような感覚があったのです。
また、3歳で母親と離別したことから、愛着障害も抱えていました。若い頃は、親から得られなかった愛情を埋めるように、人とのつながりや居場所を求め続けていたように思います。
学校生活でも苦労が多く、小学校ではいじめを経験しました。地元の中学校では校内暴力もあり、その環境から逃れるために中学受験をしました。国語は得意でしたが、計算は極端に苦手で、50代になった今でも、計算をする際には指を折って数えなければわかりません。
小学校から大学まで不登校を経験し、荒れていた時期もありました。
その後は早稲田大学政治経済学部を中退し、40歳で起業してから日本大学大学院で修士課程を修了しました。証券会社や商社などで働きましたが、規則正しい生活が苦手で、転職を繰り返していました。
――人生の転機となった出来事について教えてください。
父の自殺未遂をきっかけに家庭は崩壊、30代後半の頃はうつ病を患い、メニエル病や不眠にも苦しんでいました。精神的にもかなり追い詰められていて、自死を考えたこともあります。経済的にも困窮し、生活保護を検討するほどでした。
「これがだめだったら、もう人生を終えてもいい」という覚悟で始めたのが、小学校での有償ボランティアです。
そこで出会ったのが、非常に衝動性の強い男の子でした。彼は突然、車が激しく行き交う道路へ飛び出そうとすることもあり、危険を防ぐために、1時間ずっと抱きかかえていたこともありました。そうして関わるうちに、少しずつ絆が深まっていきました。
当時は、生活のために、夜に塾講師のアルバイトもしており、昼夜を問わず働いていました。無理がたたったのか、ボランティアを始めて3カ月ほどたった頃に急性膵炎で倒れてしまったのです。
生死をさまよう状態となり、病院のベッドで横になっていた時、枕元で担当医が「今夜が峠です」と話しているのが聞こえました。意識が朦朧とする中、「もうだめかもしれない」と感じていました。
そんな時、ボランティア先で出会ったあの男の子から、一通の手紙が届いたのです。
手紙にはこう書かれていました。
「マラソン完走したよ。だから先生も頑張れ」
以前はパニックを起こし、行事に参加することすら難しかったあの子が、私のことを思い出してマラソンを走り切り、今度は自分を励ましてくれた。本当にうれしくて、その手紙を読んだ瞬間、病室で声を上げて泣きました。
この時に「生きていてよかった。残りの人生は、この子たちの居場所をつくり、支えていくために仕えていこう」と心に決めたのです。そして退院後、「翼学院」を立ち上げました。
精神科医のひと言が聖書を開くきっかけに。
――キリスト教とは、どのように出会ったのでしょうか。
聖書に触れ、洗礼を受けたのは30歳の時でした。うつ病の治療で通っていた精神科の医師から、「父子関係に課題を抱えている人には、キリスト教が合うかもしれない」と勧められたことがきっかけです。「母子関係に課題があったら、仏教なんだけれどもね」と医師は付け加えましたが。ちなみに、その医師自身はクリスチャンではありませんでした。
当時は結婚しており、3歳の娘もいました。家族で一緒に教会へ通い、穏やかな教会生活を送っていました。
しかし、ある時、父が自殺未遂を起こしたのです。そして、「妻子を連れてこないとまた死ぬ」と迫られました。
当時の私はまだ未熟で、「父を助けなければならない」という思いから、妻子をその問題に巻き込んでしまいました。その結果、家庭は崩壊し、離婚に至りました。
娘にも会えなくなり、精神的にも大きく追い詰められていきました。街を歩きながら娘の幻影に話しかけたり、娘とかくれんぼをして見失う夢を何度も見たりしていました。不眠症やメニエル病も発症し、うつの症状もさらに悪化していったのです。
経済的にも余裕がなくなり、次第に教会から足が遠のいていきました。ただ、教会へ行けなくなった後も、信仰そのものを失ったわけではありません。イエス様の絵を描きながら、心の中ではずっと、その存在を思い続けていました。
――教会から離れていた時期を経て、どのような変化があったのでしょうか。
15年ほど教会から離れていましたが、再婚を経て新たな家族と歩む中で、信仰に立ちかえる転機が訪れます。きっかけは、息子の医学部受験でした。受験に集中できる環境を整えるため、一時的に別居することになり、生活リズムも大きく変わりました。その頃から、YouTubeで関根一夫牧師のメッセージや礼拝を聴くようになったのです。
やがて関根牧師が牧会されているMACF(ミッション・エイド・クリスチャン・フェロシップ)の礼拝に参加するようになり、そこから自分の内面が、少しずつ変化していった感覚がありました。
また、会社経営者としての自分に合うクリスチャン・コミュニティを探す中で、日本CBMC(日本キリスト者実業人会)とも出会いました。そこで、同じように働きながら信仰を持つ仲間たちと共に祈る経験を通して、信仰がさらに深められていきました。
「私と同じように発達障害や生育歴で苦しんでいる方々に公認心理師として数多く出会ってきた経験から、主の御光を示したい」という思いから、東京基督教大学(TCU)の大学院で神学を学んでいます。現在は、「共同体のあり方」をテーマに、ボンヘッフアーやラインホールド・ニーバーの知見に組織心理学の知見を照射しながら、質的研究を進めています。
教会(MACF)、TCUやCBMCといった共同体の中で、人と共に祈り、共に過ごすことの大切さを、理念ではなく“実感としての喜び”として感じられるようになりました。
――信仰を深める中で、ご自身の価値観や生き方に変化はありましたか。
父の愛情は常に条件付きだったため、「何かができる自分には価値があるけれど、できない自分には価値がない」という感覚を、ずっと抱えて生きてきました。
しかし、何かができるから愛されるのではなく、「存在そのものが神によって無条件に愛されている」という感覚を実感できるようになったのです。
その体験は、長年抱えてきた愛着障害や、自尊感情の低さを和らげてくれました。今振り返ると、大きな解放の恵みだったと思います。
また、ADHDの特性もあり、以前は何事にもすぐ答えを求めたり、悲しみや苦しみの原因を因果関係論で突き詰めようとしたりする傾向がありました。
しかし「答えの出ないことを、分からないまま受け止める」という姿勢を少しずつ身につけていきました。すぐに結論を出そうとせず、神に委ねることで、精神的にも余裕が生まれてきています。私の心を造りかえてくださった神の恵みに心から感謝しています。
心理学的な理解だけでは辿り着けなかった“赦し”の感覚を持てたことも、自分にとっては大きかったです。
